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綾羅木の中山神社に行ってきました

観光

こんにちは、ゆんつです。

下関駅から山陰方面に向かって海沿いを車で走っていくと綾羅木という場所があります。

その綾羅木の住宅街に神社があります。

その神社の名は中山神社。

今日は中山神社について書きたいと思います。

中山神社とは

中山神社は明治天皇の叔父にあたる中山忠光が祭神として祀られている神社です。

中山忠光は1845年に中山忠能の五男として生まれます。

忠光は父である忠能の薫陶を受け国を憂い、幕末に最も急進的な尊王論者として討幕運動に身を投じます。

当時の朝廷は天皇を尊び天皇が政治を行い外国勢力を日本から排斥すべきであるという尊皇攘夷派と、朝廷と幕府が手を組んで政治を行うべきであるという公武合体派との間との間で争いがありました。

やがて三条実美をリーダーとする尊王攘夷派が朝廷内で勢いを得て1863年8月13日孝明天皇に「大和行幸の詔」を出させます。

これは表向きは孝明天皇が攘夷祈願のために神武天皇陵・春日大社を参拝したのち次いで伊勢神宮に行幸するというものでしたが、実際は尊王攘夷派がこの機に応じて一気に討幕を進めようとするものでした。

尊王攘夷派は忠光を主将として「天忠組」(てんちゅうぐみ)を結成し同年8月17日遂に五条代官所を襲撃し討幕を現実に実行し始めます。

しかしこの時、朝廷内では会津藩と薩摩藩を中心として尊王攘夷派を朝廷から一掃する計画が水面下で進行していました。

8月18日会津藩と薩摩藩のクーデターは成功し、孝明天皇の大和行幸は取りやめとなり長州藩は京都から追い出され、天忠組はわずか一日で一転朝敵となり幕府軍に追われ忠光も命からがら長州藩に逃れます。

長州藩は忠光を支藩の長府藩に預け保護していましたが、その後の長州藩は幕府に恭順しようとする保守派の俗論党が勢いを増していきます。

1864年11月8日の夜、忠光は豊北町の田耕で長州藩の俗論党に暗殺され19歳と6か月でその生涯を終えます。

奇しくもこの暗殺から37日後の12月15日、尊皇攘夷派の高杉晋作が長府功山寺で挙兵し俗論党と戦闘のうえ勝利して長州藩の実権を握ることになります。

1865年11月長州藩は鎮魂のため墳墓の上に社殿を建立し、これを「中山社」と称します。

その後社地を移したこともあったようですが、1923年には社地を墳墓の隣接地(現在地)に移し、1928年には社号を改め「中山神社」と称されるようになりました。

とても長くなってしまいましたが(笑)このような歴史を持つのが中山神社です。

境内

鳥居をくぐると厳かな神門があります。

真っすぐ進むと拝殿です。

お賽銭を入れて手を合わせておきました。

拝殿から向かって左手側に進むと愛新覚羅社と宝物殿、右手側に進むと中山忠光の墓所があります。

愛新覚羅社

愛新覚羅社は1988年1月17日造営され「愛新覚羅 溥傑」(あいしんかくら ふけつ、清朝最後の皇帝「愛新覚羅 溥儀」(ふぎ)の弟)と、中山忠光の曾孫にあたり日本から溥傑の元に嫁いだ浩(ひろ)、そして2人の長女「愛新覚羅 慧生」(えいせい)の三柱が祀られています。

なぜ清朝(現代の中国)の皇帝の弟とその家族を中山神社に祀っているのかと言えば、夫婦が亡くなった場合、最も中国大陸に近い日本の地であり、またゆかりの地でもある中山神社に祀って欲しいという浩の遺言があったからなのだそうです。

通常神社の社殿は東又は南向きに作られますが、愛新覚羅社は溥傑と浩の日中友好の志を考えて、中国大陸を望む西向きに建てられたのだそうです。

今もきっと日本と中国の友好を願って安らかに眠っていることだと思います。

宝物殿

宝物殿内は撮影禁止なので画像はありません。

大規模な宝物殿ではありませんが溥傑や浩の写真や直筆の書、浩が溥傑との婚礼の際に着用した十二単など歴史的に貴重な資料が展示されていて、どれもとても興味深いものでした。

また刀や鎧などの武具や長州藩が蛤御門の変の際に使用した長櫃(ながびつ 衣類や調度品を入れる長方形の箱)なども展示されていました。

山口県出身の歴代内閣総理大臣の書もありました。

総理大臣になるような方々は皆字が上手でした。

僕がなかなか総理大臣になれない理由がわかった気がします。

もし中山神社に行かれた際は、是非これらの宝物をご自身の眼で実際にご覧になってください。

中山忠光の墓所

拝殿向かって右手側の小高い丘には中山忠光の墓所があります。

階段の登り口には中山忠光の辞世の句の碑があります。

これは

「思ひきや 野田の案山子の梓弓 引きも放たで朽ちはつるとは」

と書かれています。

意味としては「弓を引き放ちもせずに死んでしまうなんて」みたいな感じでしょうか。

志半ばで暗殺されて無念だったんでしょうね。

小高い丘の上に上がると墓石が見えます。

近づいてみると

墓石には「藤原」忠光と彫られています。

なんで中山じゃないんだろう?

この理由は宝物館の入り口に置いてあった中山神社七不思議にこう書かれていました。

一説によると、中山家をたどれば藤原家の出と言われており暗殺した長州藩が中山忠光卿という人物がこのような場所に埋葬されていることを隠したかった為にこのような墓碑銘にしたのではないかと云われております

中山神社七不思議より

つまり、長州藩が暗殺して埋葬したことを隠したかったというのが一説のようです。

アクセス

電車では山陰線綾羅木駅から徒歩10分くらい。

バスなら中山神社前というそのものズバリの停留所があるので、そこで降りればすぐそばです。

自動車で来た場合、鳥居の近くに参拝者用の駐車場があります。

まとめ

中山神社は住宅街の中にあっても、静かで厳かな佇まいを見せる神社でした。

若くして暗殺されてしまった尊王攘夷派の中山忠光ですが、彼の死後尊王攘夷派の高杉晋作が挙兵し日本は明治維新へと進んでいきます。

矢の行方を見ることはできませんでしたが、彼の梓弓はちゃんと放たれていたのです。

また日中友好に尽力した溥傑、浩、慧生が祀られている愛新覚羅社も、楚々とした佇まいで、今でもそっと日本と中国の友好を見守ってくれているような感じがしました。

中山神社を訪ねた後は、幕末つながりで長府の功山寺にも足を延ばしてみるのもいいかもしれません。

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それでは、またですー。

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