こんにちは、ゆんつです。
1895年(明治28年)3月20日。
下関で歴史上とても重要な会議が開かれました。
日清戦争で勝利した日本と清国との講和条件をめぐる会議です。
下関の割烹旅館「春帆楼」で開かれたこの会議は日本側は伊藤博文と陸奥宗光が主軸となり、清国側は李鴻章を主軸として両国の代表11名が出席しました。
講和会議は春帆楼で繰り返し開催され紆余曲折がありながらも、1895年(明治28年)4月17日に講和条約が締結されます。
この条約を日清講和条約(下関条約)と言います。
日清講和記念館には、そんな日清講和条約が締結された際の調度品や資料が展示されています。
今日は下関の春帆楼にある日清講和記念館について書きたいと思います。
館内
記念館は中央部分がメインで、ガラスが張り巡らされた向こう側に日清講和条約が締結された際の会場内の様子が再現されています。
配置されている調度品は講和会議当時の物で、過去の記録を参考にして配置されているそうです。
椅子のそばには名前が書かれた札があり、誰がどの席に着席していたのかが解るようになっています。
李鴻章側から
伊藤博文側から
やはり李鴻章と伊藤博文の椅子は他の出席者に比べて豪華ですね。
背もたれがフカフカしてます。
講和会議場を再現した周囲には様々な歴史的資料が展示されています。
当時の会議場の写真
会議はこんな感じで開かれてたようです。
伊藤博文と李鴻章
李鴻章はまるで仙人のようで、ずいぶんお爺さんに見えます。
李鴻章は1823年2月15日生まれなので、講和会議時は72歳。
お爺さんに見えるのも無理はないですね。
しかも李鴻章は講和会議の期間中に狙撃され負傷します。
講和会議に来て狙撃されるなんて・・・
悲運としか言いようがありません。
李鴻章の書
めちゃくちゃ上手い。
「海岳煙霞」と書かれています。
当時の下関に霧がかかって景色が霞んでいたのでしょうか?
講和文書を謄写した石板。
わかりやすく口語訳されたものも掲示されています。
講和条約の大まかな内容は
1. 朝鮮国の清国からの独立
2. 遼東半島、台湾、澎湖諸島などの割譲
3. 清国が賠償金2億テールを日本に払う
4. 清国は、日本に最恵国待遇を認める
となっています。
詳細な内容を知りたい方は以下のリンクをご覧ください。
ちなみに賠償金の2億テールがどれくらいかというと当時の価格で3億6000万円前後みたいです。
当時の日本の国家予算は約8,000万円らしいので国家予算の4倍もの賠償金を手に入れたことになります。
戦争に負けた方は徹底的にむしり取られるというのがよく解ります。
「眠れる獅子」と恐れられていた清国は、敗戦や賠償金の支払いにより衰退し欧米列強からも侵略されることになります。
そして日本は賠償金を元にさらなる軍備を進め、それが日露戦争の勝利に繋がっていきます。
小規模だけど色んな事を考えさせられる日清講和記念館でした。
アクセスなど
施設名 | 日清講和記念館 |
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住所 | 山口県下関市阿弥陀寺町4−3 春帆楼の敷地内の1画にあります。 |
アクセス | |
入館料 | 無料 |
開館時間 | 9:00~17:00(入場は16:30まで) |
駐車場 | 無し |
トイレ | 無し |
1口メモ | 赤間神宮のすぐ隣にあり歩いて2~3分の距離です。 講和会議で実際に使われていた調度品や、歴史的な資料などは一見の価値があります。 僕のお勧めは李鴻章の書です。 赤間神宮に観光に行く人は多いですが、日清講和記念館は割と見落とされやすい観光施設です。 この記念館にも是非足を伸ばしてみてください。 |
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